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ジョナサン・ミラー演出《コジ・ファン・トゥッテ》/Royal Opera House

2007年08月04日
 アレン追っかけ旅行から帰ってきて早2週間経ちました。ようやく落ち着いてきましたので、忘れないうちに《コジ・ファン・トゥッテ》の舞台について、感じたことをまとめておくことにしましょう。

 と言っても、意識の99%はアレン(の挙動)にフォーカスしておりまして(*1)、残りの0.7%でミラーの演出を、0.3%でデイヴィスの指揮と他の歌手の歌唱をチェックしたという体たらくです。“絵”があると音楽なんて聴けなくなりますしネ。
 おまけに、ワタシが観たのは7/17、7/20の回ですが、どちらがどうだったとか細かい記憶もゴッチャゴチャ。かなり大雑把な感想になってしまいますがご了承クダサイ。

(あらすじは、まぁウィキペディアのこちらなどを。すんまへん、面倒だもんで)

ガランチャのドラベッラと、レガッツォのグリエルモ アレンの追っかけは置いといて、今回のROH《コジ》鑑賞のいちばんの目的はジョナサン・ミラーによる演出の妙技を堪能することでした。

 以前の記事でちょっと触れたことがありましたけれども、ワタシは「現代読み替え演出」があまり好きではありません。大抵は舞台上で行われていることが歌詞やテーマにそぐわなくなり、シラケます。そもそも歌唱あってのオペラなのに、奇抜な演出に頼るとはケシカラン。歌手はテキトーに突っ立って歌ってりゃいいのヨ!! という、音楽偏重主義者的なオペラ愛好家なのです。
 ん~基本的に、普段はCDしか聴いておりませんのでネ……(^^;

 そんな頑固なワタシに、「いやいや、オペラの楽しみは音だけじゃないよ?」と教えてくださったのが、ブログを始めて知り合った同好の方々。そして、6月の新国立劇場《ファルスタッフ》なのです。
 こちらの演出は「現代読み替え」ではありませんでしたが、スタイリッシュな感性はやはり現代的。視覚的に訴えるものでありながら音楽とも大変マッチしていましたし、古いオペラにありがちな矛盾したプロットを適度に補正して、現代人の合理的な感性に耐えうる作品に仕上げていたと思います。

 人物の動きも細かいながら、歌唱を妨げるほどではありません(演じるほうは大変でしょうが)。なるほど、ジョナサン・ミラーという人は、オペラをよく理解して愛している演出家なのだなと、一気に好感度大・興味津々となったわけです。

 で、ROHの《コジ》なんですけれども、まさに「良質の演出とパフォーマンスの勝利」といったところ。「《コジ》は地味でつまんない」と思っていたワタシを普通に笑わせ、それぞれのシーンの旋律における作曲者モーツァルトの「意図」をしっかり引き出しているんですね。もしくは、モーツァルトはそこまで考えていなかったかもしれませんが、200年後の私たちの笑いの感性を普通に受け入れることのできる懐の深さ、モーツァルトの職人芸が、ミラーの演出によって表出したということでしょう。

 ダ・ポンテによるスカスカな台本も、ミラーの演出なら納得です。
 舞台はナポリというだけで、フィオルディリージとドラベッラの姉妹がどういう家柄のお嬢さんなのかは全く不明。どこの馬の骨ともわからない怪しい男どもと結婚式まで挙げるというに、父親の姿はどこにも見えず。
 代わりに自称哲学者のドン・アルフォンソがやけに馴れ馴れしく姉妹の家を出入りしていますが(食客なんですかねぇ?)、このジジイと姉妹の関係も不明。姉妹と婚約している青年、フェランドとグリエルモとなぜ親しくしているかも不明。

 単に若い男女にスワッピングをさせたかっただけなのがミエミエな設定ですが、これぞ「シチュエーション・コメディ」の基本的な骨格なのです。

 シット・コムは設定自体がドラマですから、ストーリーなんてハナクソみたいなモン。勝負の要はキャラクターです(`・ω・´) シャキーン

 このキャラクター(特に若い男女4人)の描き分け/歌い分けが上手くいっている舞台や録音になかなかめぐり合えなかったのですが、ミラーの演出はその部分にもかなり意識的であった模様。自分が気になる部分をしっかり押さえてくれるアーティストは、それだけでファンになってしまいます。
 簡素な舞台美術も、「これはドラマじゃねーのよ、シット・コムなのよ。キャラの魅力で勝負だヨ」というミラーの自信の表れでしょう(たぶん)。ワタシにとっては大変好感の持てるものでした。



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グリエルモ(レガッツォ)とフェランド(ポレンザニ) 姉妹の恋人であるフェランドとグリエルモは、もともとの楽曲からして比較的キャラが立っているほうです。
 アリアから受ける印象では、フェランドのほうが情熱的でロマンティスト。グリエルモは低声の役らしく滑稽な旋律も歌います。

 が、今回のミラーの演出では、フェランドのほうがよりお調子者で悪ノリもしちゃうという味付け。グリエルモは淡白です。
「出征しマス……ショボーン」と出てきて恋人たちを騙すのですが、迷彩服がお気に召したのかノリノリのフェランド。音楽に合わせて腕立て伏せをするなど、おフザけモード全開です。
 あまりにおフザケが過ぎるので、傍らのアルフォンソが(真面目にやらんかっ)と睨みます。

 二幕で毒を煽ったフリをして、デスピーナの「電気ショック療法」を受けるシーンでは、フェランドは看護婦さんに抱きつきエッチに痙攣。その直後、フィオルディリージにキスを迫りますが、エロすぎてフィオルディリージは「きゃぁぁ~!!」と声をあげるし(演出の妙技ですが、そもそもモーツァルトの楽譜がそうなっているんです)。ドラベッラに迫っているグリエルモが思わず「ムッ」として振り返るほど。

ドラベッラ(ガランチャ)とフィオルディリージ(レッシュマン)  実は、このフェランドの性格付けが、「女はみんな浮気者なのか?」というテーマに重要にからんでくるんですね。

 昨今では「二人の姉妹は男の正体をちゃんと見抜いた上で浮気に応じる」という設定が一般的です。感情に流されるのではなく、恋だって浮気だって自ら選択してやっている――これが現代の女性の姿ですね。

 ミラー版では、妹(と思われる)ドラベッラが男二人の正体に気付きます。なにしろおフザケが過ぎますから、気付かないほうがおかしいのです。で、騙されているフリをして男どものスワップな求愛に付き合っているわけですが、自分の恋人のフェランドがやけにノリノリで姉に迫るもので、「黙って見てりゃ、なにサ!!(`皿´)」と、姉の恋人グリエルモになびいてみせる。浮気の動機として、とっても自然。

 対するフィオルディリージは、馬鹿正直で生真面目、思い込みの激しいキャラクターです。妹が「姉さん。あの二人、実はね……」と何度も伝えようとするのですが、全く聞く耳を持ちません。そのうち妹にも「付き合いきれんわ」と見放される始末。

 姉妹のそんなテンションのズレは、二人の衣装にも表れていました。
 恋人が出征した(と騙された)直後はお先真っ暗ですから、二人とも喪服のような全身ブラック。けれども、怪しげな異国男性による熱烈な求愛が始まりますと、部分的に淡いカラーの衣装に戻っていきます。
 2幕の冒頭では、妹ドラベッラは既に浮気を決めていますから、完全に喪服を脱いでいます。フィオルディリージはパンツはブラックのままですが、やはり新しい男の出現に内心ときめいていますので、ブラウスはパープルがかった淡いピンク。

 そんなフィオルディリージもついに陥落しますが、こちらはドラベッラより大マジ。「グリエルモも愛してるけど、どーしましょう、あの変な男のことが真剣に好きなのおォォォヽ(`Д´)ノ」というのがオチです。

 それもミラーの演出だと、ちゃんと理屈が通るのですよね。
 グリエルモはどこか淡白です。出征する際、グリエルモは嘆き悲しむフィオルディリージを軽くあしらってしまうのですが、隣でフェランドとドラベッラが熱烈に抱き合っているのを見て、慌ててフィオルディリージに「come! come!」とやる。けれども、フィオルディリージは「いいデス!! いいデスってば!!o(`ω´*)o」とヘソを曲げる。そんなシーンがありまして。

 そこから推察するに、おそらくフィオルディリージは、グリエルモとの恋に物足りなさを感じていたんでしょうね。そこへノリノリなフェランドの熱い求愛を受けたものだから、恋人に悪いと思いながらモロにクラッときてしまった――。
 こういう心理も、とっても自然。
 さすが、人間考察に長けたミラーならではの味付けだと思います。

ドン・アルフォンソ(アレン) 数年前の写真で申し訳ない ミラーの絶妙な味付けは、主要4人のキャラクターにとどまりません。
 喜劇とも悲劇とも言えるこの茶番を仕切っているのはトーマス・アレン扮するドン・アルフォンソですが、これがまた見た目はダンディながら、挙動は典型的なセクハラじじい。メイドのデスピーナを追いかけ回してボディ・タッチは言うに及ばず。美人のドラベッラにもさりげなくちょっかいを出してはイヤ~な顔をされています。

 姉のフィオルディリージには全く手を出そうとしないところが、これまたウケるんですけれども。お顔はカワイイけれど体型は“ちんちくりん”ですからネ(←失礼。いや、ワタシはガランチャよりレッシュマンのほうが好みですよ?)。生々しい役作りダ。

 セクハラ男の行動は日本でも欧米でも同じなんだなぁ~と妙に感心しながら観ていましたが、とどのつまり、これがミラーの演出の要であることにやがて気付かされました。

 すなわち、
はみんなこうしたもの」だけど、「もこうしたもの」、だよね?
 ――と。

 フェランドとグリエルモにしてもそうですね。賭けのためとはいえ、互いの恋人を交換して口説き、深い仲になるのですよ。オリジナルの台本では肖像画入りのロケットを交換するだけですが、現代の演出では携帯カメラ……いやいや、肉体関係を結ぶところまでいかないと、観客は「浮気」と認定しません。ヤッちゃうんですよ、ヤッちゃうの。

 男性は「女ってどうしてコロコロ心変わりをするんだよ!?」と思っているかもしれませんが、女性だって不思議なのです。「男って、なんで好きでもない相手とヤれるわけ!?」と。

左からグリエルモ、アルフォンソ、フェランド フェランドとグリエルモも、そういう意味で典型的な“男”です。自分の恋人を寝取られれば「ヂグジョー!!ヽ(`Д´)ノ」と泣くくせに、それぞれの相手を口説き落とした瞬間は「やったネ!!(・∀・)」とガッツポーズをするんですから。

 それをニヤニヤしながら眺めるアルフォンソ。見た目はエレガントだけど一皮剥けば下品なオヤジ。
「いいじゃないの、浮気しちゃえば?」と姉妹をそそのかすデスピーナは、アルフォンソのちらつかせるお札の誘惑に抗えない。

 男であろうと女であろうと、人間の本質なんてそんなモン。いくら外見を飾りたてて、愛だの貞節だの正義だのとご立派な言葉を並べたてても。
 サテ、皆さんはどうなんですか? とのミラーからの問いかけが、舞台中央の大きな姿見に象徴されています。

 二人の姉妹も青年士官も、老哲学者もメイドさんも、その他大勢の合唱団も、みなこの姿見に自分の姿を映しては、身なりを整えたり悦に入ったり。けれども一皮剥けば、普段「こう」と思い込んでいるのと全く違った、くだらない一面が現れます。
 そうなって初めて「こんな筈では……!!」と慌てるのですけれども、実はそっちの一面のほうが真実の自分に近かったりして――。

 鏡に映ったものではない、真実の自分に直面するのは、けっこうしんどい経験です。その苦悩が2幕のフィオルディリージのアリア“Per pieta, ben mio, perdona”に凝縮されていますが、ドロテア・レッシュマンのパフォーマンスはさすがでした。
 ワタシが観た両日は、残念ながらあまり調子が良くないようでしたが、それでも引き込まれました。

 レッシュマンを生で体験できたことも、今回の観劇の収穫であったと思います。

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*1:
生アレンを目の前にしたワタシの馬鹿騒ぎっぷりはコチラ。
笑ってやってくださいませ~↓
1晩目(7/17), ◇2晩目(7/20)

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