スポンサーサイト

--年--月--日
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


※このブログはお引越ししました。移転先ははコチラです↓↓ http://everydayopera.blog.so-net.ne.jp/

弁者に萌えろ デイヴィッド・マクヴィカー演出《魔笛》/Royal Opera House 1

2008年03月19日
このパパゲーナは最高ネ♪ 歌手レポが済みましたので、いよいよマクヴィカーの演出についての感想と参りましょう。08年2月のロイヤル・オペラハウス《魔笛》です。

 長くなるので、まずはランキングのクリックを♪

 演出の仕事の本質とは、とにもかくにも「台本の解釈」であると、どこかのサイトで読みました。「歌」が主役のオペラの場合は、「台本+スコアの解釈」となるわけですね。あ、なるほどナ~と思った次第。

 私、今までは、「演出の仕事はとにもかくにも“絵”を作り出すこと」だと(浅はかにも)思っていて、まぁそれはその通りなんでしょうけど、それが音楽と直結した作業とは全く気づいていなかったのであります。ゆえに、「“絵”なんて付け足しサ!」なんて軽く見ていた節があったかも。

 センスの良い演出は、音楽と渾然一体となった素晴らしい“絵”を見せてくれるばかりか、時には音楽の持つ可能性を広げて新たな世界を創造してしまうこともあるのよね。

 で、マクヴィカーの《魔笛》なんですけれども、これはねー、さりげない風を装っていますが、なかなかにウィットに富んだ寓話ではないかと。

 《魔笛》のストーリーは「難解」とか言われますけど、要するに、プロットづくりが下手くそでメチャクチャなだけなと思うのね。現代人の合理的な頭でテーマを読み解こうとするのがそもそもの間違いなんじゃないでしょうか。

 最初から「意味なんてねーよ」と思って見るほうがいい。カーチェイスとかラブシーンとか、ウケそうな要素を盛り込んだだけの、B級ハリウッド映画ですわ。

 とはいえ、モーツァルトですからね。音楽のレベルはメチャクチャ高いわけで、せっかく上演するならそれなりに質の高いエンタテイメントに仕立てなければなりません。「ワケワカラン」なシーンでも、それなりに深い意味があるってしてくれたほうが、現代の我々にとっては楽しいのです。

 そこが演出家の腕の見せドコロ。

 長短の柱は乱立してるけど、屋根を支える大黒柱の見当たらない、そもそも「屋根だってあるかどうかわからない」ようなストーリーに、それなりのテーマ(柱の代わりに、天から屋根を吊るすロープのようなもの?)を与えてやるのが、《魔笛》における演出家のお仕事なんだと思います。

 ケネス・ブラナーも映画《魔笛》でそれをやっていましたよね。彼のテーマ設定はとてもわかりやすいものでした。わかりやすすぎて、ビミョーにうんざりしたんですけど。(でも作品としては好きよ♪)

 マクヴィカーも一つ、テーマ(コンセプトとは違いますよね?)を設定しているようです。
 こちらも単純なものですが、示し方はブラナーよりも捻りがあります。

兄さんの弁者 テーマを読み解く鍵はあちこちに散りばめられてあるんですが、最も重要なヒントを与えてくれるのが弁者のキャラクター設定である、と。

 え? なに?

 どーせ、


アレンの弁者が素敵なのー(人´∀`).☆.。.:*・゚


 って、萌え語りしたいだけダロ!! って?





当たり前じゃないですか!





 弁者の扱いを主眼に置きつつ、私なりに読み取った「テーマ」をまとめてみます。が、どこをどー探しても今回の弁者の画像がみつからないので(そりゃそうだね)、5年前の同演出のDVDから拝借することにします。キャストが若干違うのはご容赦を。

 長くなるので…ここでランキングのクリックよろしく♪


※このブログはお引越ししました。移転先ははコチラです↓↓ http://everydayopera.blog.so-net.ne.jp/
--------------------
 あらすじはウィキペディアを参照していただくとして――ああやっぱり、このプロットの不出来さにはイライラします。

 まず、主人公であるタミーノの旅(をしているんだよね?)の目的が不明確。夜の女王とザラストロの対立構造も曖昧だし、その後の修行だの試練だの、いったい何の意味があるんでしょうね?

 シカネーダ、コラァッ!! くだらん台本書きやがってっヽ(`Д´)ノ

 などと理不尽な怒りをぶつけながらも、とにかく弁者どのにザラストロ教団の目指すところを尋ねてみましょう。
弁者
「………」
 ん~なんか、声が小さくて聴こえませんが、
 まぁ恐らく「光で照らされること(蒙(くら)きを啓(あき)らむ)」、闇を打ち破るべく何らかの英知を探求する集団ってことなんでしょう。

 もっと具体的に言うのであれば、夜の女王を退けるための光(武器? 呪文? 力?)を得ようとしているわけね。

 ちなみに弁者どのによりますと、その英知を得られるのは男性のみ。女性はお喋りで邪(よこしま)だから、遠ざけるが良いってことらしいです。

 ……禁欲主義者? 萌えるんですけど(*´Д`)

 やっぱり意味がわかりませんので、ザラストロ様に直接確かめるべく、弁者どのにくっついて行ってみます。

「ザラストロくん、メシはまだかね?」「さっき食べたじゃないですか…」 ……弁者どの、一介の僧侶のくせに、ザラストロ様より偉そうですよ? 周囲にも一目置かれているみたい。ザラストロ様も、弁者どのにはいささか気を遣っておられるご様子。

 せっかくザラストロ様がアリアをお歌いになっているのに、弁者どの、さっさと中座しちゃいますしね。
 このじいさん、いったい何者なんでしょうか。

 それが何とな~くわかってくるのは、2幕も後半に押し迫ってから。

タミーノと弁者 炎と水の試練を控え、タミーノはパミーナと別れを告げます。

 悲しみに打ちひしがれるタミーノ。そこへ弁者どのが現れて、彼を気遣うようにそっと魔法の笛を拾い上げるのですが――。

 その瞬間に見せる弁者どのの複雑な表情。憐れみでもなく、励ましでもなく、タミーノと同じ運命をかつてその背に負ったことがあるのではないかと、観る側に想像させるのですね。

 この演出を何度もご覧になっているサルダナさん曰く。弁者どのは大昔、タミーノのようにひょんなことからこの教団に転がり込んできて、真理を求めて炎と水の試練を受けたことがあるのではないか、と。

ああ弁者どの…・(つД`) おそらく、そういうことなのでしょう。

 続く、タミーノを送り出す厳粛な合唱のシーン。本来なら弁者の出番は無いのですが、マクヴィカーはあえて弁者を舞台下手に立たせます。

 その背中をじっと見つめるタミーノ。

 後からザラストロも加わりますが、ザラストロもタミーノより前には出ません。タミーノの傍に寄り添って、やはり弁者の背中を見つめるのです。

 登場の場面では弁者は書斎におりましたから、おそらく、若い時代の向こう見ずな挑戦にもかかわらず、望みのものは得られなかったものと思われます。
 傍らの子どもをなにやら熱心に勉強させているのも、自分の後継者として育てたいという願いを持っているからなのかもしれません。

 老いてもなお野心と探究心を失わず、真理を求め続ける弁者どの。その存在に畏敬の念をはらうザラストロをはじめとした次世代の人々。この構図を設けることで、タミーノの挑む試練の壮絶さ、ザラストロ教団の抱く信念の重みが生まれ、薄っぺらなストーリーが突如として「普遍性」を持つようになるのです。

 マクヴィカーのその手腕、大したものだと思います。

 ナルホド。弁者どのも、真理の探究と引き換えに、愛する女性と別れた経験を持つのだわね、きっと。な~んて想像すると――。
 イカン、ますます萌えるじゃないの(*´Д`)


 弁者の基本を抑えたところで、次回は《魔笛》のテーマ語りへ


 クラシック音楽ランキング ←更新の励みに。クリック応援よろしくね♪

 ※Sardanapalus さんの感想記事も、是非お読みくださいませ!
スポンサーサイト


※このブログはお引越ししました。移転先ははコチラです↓↓ http://everydayopera.blog.so-net.ne.jp/


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。